帷子川 あごひげアザラシ「タマちゃん」の登場で全国に帷子川の名を広め「帷子」の漢字にも関心を集めた。アイヌ語のカタヒラに帷子の漢字が付いた。古くは天王町付近が帷子村で、今は帷子橋が残っている。江戸時代末期、横浜港開港のころは橋の近くまで入り江であった。当時の橋は木造アーチ型現在の倍以上はあったと思われる見事なものだった。江戸からの旅、帷子橋を渡るとそこが保土ヶ谷宿である。
帷子川は水の恵みである半面、暴れ川の異名もあった。仏向は二つの鎌倉街道の間にあって往来も多く、ひとたび大雨が降るとたちまち氾濫し里人や旅人に多数の犠牲者が出た。川の氾濫は古くから最近地下分水道ができるまで続いたが、治水工事のために作られた機材運搬用のトロッコが相模鉄道に発展した。昭和30年ころから地場産業として川添えに捺染工業が栄え特にスカーフは大流行した。
相模鉄道 仏向町民の足である相模鉄道の歴史は大正15年、星川ー厚木間を走る蒸気機関車の神中(じんちゅう)鉄道が誕生、そして昭和8年、横浜駅へ乗り入れるようになった。昭和18年、茅ヶ崎ー橋本間を走る相模鉄道と合併したが、翌年には相模線が国鉄に吸収されたため、もとの神中鉄道は相模厚木線となり、その後相模鉄道となった。開通当初は貨物輸送が主だったが現在は通勤や買い物客の足となっている。