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正福院
仏向村 正福院の住職「堯室」が初めて北条家を訪ねた折、出家の身で仏に向かうことのみが本意で何も願い事はないが、村里に仏向の2文字をもって名付けたいと申し出たことが名の起こりである。曹洞宗正福院は640年前の室町末期に起ったが、崖崩れで避難していた時代もある。現在の正福院は約300年前の元禄2年当地に移転してきた。境内には当時の山本家の墓や樹齢300年の銀杏の大樹がある。 

元仏向
 江戸時代の仏向村は元仏向(団地の北西)を起点として周辺に字、地名が付けられた。中央が稲荷の上、仏向里、兵庫谷、西側に前畑、西谷、向原、猪久保、東側に北上、的場、内田、北側に砂子田などの小名があった。兵庫谷は仏向村を開拓した金子兵庫の居住した所である。その後、里と原に分かれ50数件の農家が点在していた。

 仏向浅間寺 平家の落人をかくまった罪で寺を焼かれてしまったが、この時天徳院は本尊を抱えて帷子川に飛び込み火難を免れた。本尊は流れ流れて帷子橋の付近にさしかかった折3人の村人に発見され、水中から紫金の光明が流れてくるので引き上げて見ると一つのご神体であった。村人は3人とも同じ牛頭天王の夢を見たことから橘樹神社に牛頭天王としてご神体を奉った。天王町地名の由来であり、その後ご神体は宮田町の稲荷神社に移された。仏向浅間寺がどこにあったか確かなことは分らない。.

 神明社と稲荷社 江戸から明治時代にかけて仏向町731番地に稲荷社、597番地に神明社が存在していた。神社に通じる隘路が宮前通り、会館付近は宮の上、北側の平地部分を宮の下と称してした。その後この二つの神社は杉山社敷地内に移築された。

 お犬様 
御嶽神社の神使が犬であったことから「お犬様」といわれる石塔が仏向町511番地にあり信仰の講中が組まれた。ここに御嶽神社も建立し、お犬様を祀る祭事が昭和30年後期まで続いていた。

  飛鳥時代のこと、日本武尊(やまとたける)が東征の折、三浦から海路上総に渡る途中海が荒れて危難に直面した。その時尊の妻「弟橘媛(おとたちはなひめ)」が渦巻く海に飛び込んで海神の怒りを鎮め尊を救った。尊は媛を哀れみ悲しみ永くその名を伝えようと御名代(おみしろ)として定めた。橘樹郡、橘中学、橘樹神社などの名がその由来である。保土ヶ谷区が誕生する前は橘樹郡であった。


仏向杉山社
 杉山社祭り、元朝参りなど馴染みの深い杉山社の起こりは室町時代北条早雲が関東に勢力を広げていたころ、その子「氏康」が上杉朝定と戦っていた陣営で日本武尊東征の夢を見たことが勝利の兆し
と思った。 そのとうり大勝したので杉山神社を築造して尊(たける)に感謝し、武運長久と五穀豊穣を祈願するようになった。現在の杉山社は立体橋工事のため移転したが水道道沿いの旧神社跡には出羽三山供養塔(出羽が遠隔地のため代わりの供養、庚申塔(人の心の中にいる見ざる、言わざる、聞かざるの3匹のさる)、斉上地神塔(畑仕をやめ神を祭る)の三つの石塔がある
三つの石塔