仏向の今昔
2002年睦ケ丘自治会・尾形
横浜市の中心街にほど近い仏向の丘は少々坂道は多いが眺望よく、緑に囲まれた閑静な環境にあり都会の中の田舎を思わせる。最初にここに住んでいたのはどんな人だったのか、また地名の由来など仏向の今昔を紹介する。
仏向町は昭和2年4月1日、第3次合併で横浜市に編入のとき保土ケ谷町字仏向から新設された。面積は約2.05平方キロメートルで町内には仏向、仏向団地、睦ケ丘、水道山、星ケ丘、星の丘、坂本、ビューシティの7自治会がある。(平成17年までは西仏向を含め8自治会が存在していた)
古代 仏向周辺に点在する遺跡や古墳の発掘が明治から大正にかけて行われ、古い地層から古代人たちの住居跡や貝塚などが多数発見された。海が近くまた帷子川や今井川による水の恵み、そして台地での狩猟など人類の生活に適していた。地下1.5メートルの地層から縄文から弥生時代の石斧、矢じり、土器、動物の骨、貝殻などが見つかり、その生活様式から仏向周辺に最初に住んだ人たちはアイヌ民族であった。ホンモク(本牧)、トッペ(戸部)、カタヒラ(帷子)、ホト(保土)などはアイヌ語の表言(活字は後から付けた当て字)。その後日本原人(渡来人)に代った。
昭和に入ってから団地建設にさきがけての調査では方形周溝墓5基、縄文住居跡3ヶ所が発見され、なお周辺にはたくさんの住居跡があるとされている。昭和52年土地区画整理事業により橘中学校の西側にあった仏向遺跡(地神塚古墳)の調査が行われた。古墳頂頭部は標高91メートル、大きさ経23メートル、高さ2メートル、の円墳で周囲には幅2メートル、深さ80センチの周溝があった。遺体埋葬の木棺、首飾りの玉類(水晶玉、ガラス)、鉄製品20片が、また周溝からは多くの土器類、壺、高杯などが横倒し状態で見かり、5世紀のものと考えられている。その他にもこの付近には矢シ塚遺跡、猪久保遺跡があり、それぞれから石斧が出土している。また古くから遺跡といわれ手付かずのところもある。